『無職転生』を見て腹が立った朝――それだけでは、人は変わらない

昨夜、アニメ『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』をシーズン3の第13話まで一気に見た。

見終わったあと、とても嫌な気分になった。

私はアニメが大好きだ。ストーリー、作画、声優、音楽、キャラクター設定。それぞれを含めて一つの「作品」として見る。

だからこそ、この作品の主人公ルーデウスが、私はどうにも好きになれない。

「この作品は、何年もかけて一体何を言いたいのだろう?」

今朝、チャッピーさんとそんな話を始めた。

私は子どものころから国語が苦手だった。読み書きも苦手。字も下手で、自分で書いた文字が自分でも読めないほどだった。もちろん読書感想文なんて大の苦手。

そんな私が62歳になって、アニメを見ながら「作者は一体何を言いたいんだ」と考えている。なんとも不思議な話である。

与えられた。それでも……

『無職転生』の主人公は、前の人生では引きこもりだった中年男性だ。そして人生を終え、異世界に転生する。

考えてみれば、とんでもなく恵まれた「やり直し」である。

異世界を与えられた。

若い身体を与えられた。

才能を与えられた。

家族を与えられた。

愛してくれる人を与えられた。

それでも……

それだけでは変われなかった。

ここに、この作品を見ながら私がずっと引っ掛かっていたものがあった。

環境を変えれば、人は変わるのか。誰かが救いの手を差し伸べれば、人は変わるのか。

何十万円もかけて片付けても

たとえばゴミ屋敷の問題がある。

何十万円もの公費をかけて、ゴミ屋敷をきれいに片付けてもらった。

大量のゴミがなくなり、生活できる環境を取り戻した。これで解決したように見える。

でも、またすぐにゴミ屋敷に戻ってしまうことがある。

もちろん、すべてのケースがそうだと言っているのではない。病気、障害、孤立、経済的な問題、家族関係など、その背景は一人ひとり違う。外から見ただけでは分からない事情もある。

それでも私は思う。

自ら意識を変え、自ら行動しなければ何も変わらない。

周囲の人間ができることには限界がある。家を片付けることはできる。相談窓口を用意することもできる。制度につなぐこともできる。手を差し伸べることもできる。

しかし、その人の代わりに、その人の人生を生きることだけはできない。

8050問題を考える

私はYouTubeなどで8050問題について、いろいろな事例を見てきた。

最初から何十年も引きこもろうと思っていた人ばかりではない。始まりは、小さなつまずきだったかもしれない。

学校へ行けなくなった。仕事を辞めた。人間関係で傷ついた。今日一日休むつもりだった。それが一週間になり、一か月になり、一年になり、気がつけば何十年という時間が過ぎている。

私は、そういう話を軽く流すことが苦手だ。「仕方なかったね」で終われない。

では、どこかで流れを変えることはできなかったのか。誰かが手を差し伸べていたら違ったのか。そして手を差し伸べても、本人が動かなかったらどうなるのか。

答えは簡単ではない。

私にも、動けなかった一年半がある

ここまで書くと、「動けない人に、動けと言っているだけではないか」と思われるかもしれない。

だから、少し私自身の話をしたい。

私自身、二十代の時に月300時間以上勤務して自律神経が崩壊し、嘔吐、過呼吸を繰り返し、夜中に何度も救急車を呼んだりして、約一年半、社会復帰できなかったことがある。

実際に長期間引きこもっている方からすれば、「たった一年半か」と言われるかもしれない。それでも、その時の私は不安と暗闇の渦の中にいた。

「変わらなければいけない」「何かをしなければいけない」。そう考えるほど、自分自身が苦しくなった。私の場合は、自分を追い込むと、嘔吐や過呼吸を引き起こすことさえあった。

だから少し考え方を変えることにした。いや、「変えた」というより、ある時気がついたと言ったほうが近いかもしれない。

「変わらなくていいんだ。」

「出来ることをすればいいんだ。」

そう考えるようになると、ずいぶん楽になった。

なぜ「最初の一歩」がこんなに重くなるのか

今朝、チャッピーさんと話していて、長く引きこもっている人が「動きたくても動けない」とき、頭の中ではこんなことが起きているのかもしれないという話になった。

たとえば、「働こう」と思って求人を見る。

求人を見る → 働くことを考える → 面接が怖い → 何十年も働いていないことを聞かれる → バカにされるかもしれない → 採用されても続かないかもしれない → また失敗する → 家族にも失望される → だったら最初から見ない。

まだ面接にも行っていない。でも、頭の中では何歩も何十歩も先まで進み、最後には「また失敗する」という結論まで行ってしまう。

そして、求人を見るのをやめる。その瞬間だけ、不安から解放されて少し楽になる。

電話でも同じことが起こるかもしれない。

電話しようとする → 怖くなる → 電話しない → ホッとする。

この「ホッとする」が何度も繰り返されれば、怖いことから離れることが、その場の苦しさを減らす方法になってしまう。すると次の一歩は、ますます重くなる。

だから私は、「働かなければ」「社会復帰しなければ」という大きなところから考えなくてもいいと思う。

いきなり社会復帰する必要はない。まず玄関まで行く。できたらドアノブに触れてみる。そして、ちょっとだけドアを開けてみる。

他人から見れば何でもないことかもしれない。でも、その時の私にとっては一つ一つが「出来た」だった。

その小さな「出来た」が、ほんの少しの自信になる。そしてまた一つ、出来ることをする。その繰り返しで、少しずつ自分を信じられるようになった。

私の場合、その先にピアノがあった。楽譜も読めない私がピアノの先生のところへ押しかけ、「この曲が弾けるようになりたい」と頼み、毎日15時間、一か月続けて弾けるようになった。

次に宅地建物取引士の試験へ挑戦した。日々、プレッシャーや吐き気と戦いながら勉強を続け、一度の受験で合格することができた。その経験も自信となり、私は社会へ戻っていった。

「しなければならない」をやめてみる

成功法則の本なら、似たようなことはたくさん書いてあると思う。でも、これは私が実際に苦しかった時にやっていた方法である。

たとえば目標は「元気になる」でもいい。ノートに目標を書いたら、自分に問いかける。

「そうするためには?」

「どんなに小さなことでもいい。実際に今日できることは?」

そして、思いついたことをノートに書き出す。ここで私が大切にしているのは言葉の語尾である。

「○○しなければならない」ではなく、「○○する」と書く。

まだ出来ないこと、これから考えなければならない問題なら、私は「解決すべき事項」と書く。

「しなければならない」という言葉は、私にとって義務や負担になった。「出来ていない自分」を責める言葉にもなった。

でも、「○○する」なら、今日する行動になる。「解決すべき事項」なら、自分を責めるのではなく、これから考えて解決する問題になる。

言葉や語尾なんて小さな違いに見える。でも、苦しんでいる時の私には、その小さな違いが大切だった。

今、引きこもりで苦しんでいる方へ

私の一年半の経験を、何十年も苦しんでいる方と同じだと言うつもりはない。事情も苦しさも、一人ひとり違う。

それでも、私の経験から一つだけ伝えられるとすれば、こうなる。

無理に変わろうとしなくていい。

「今の自分に出来ることは何だろう」と自分に聞いてみてほしい。

カーテンを開けることでもいい。玄関まで行くことでもいい。誰かに一言返事をすることでもいい。

そして出来たら、「こんなことくらい」と消してしまわないでほしい。それは今日、自分で出来た一つのことだから。

自分一人では難しければ、人に助けを求めることも立派な一歩だと思う。たとえば両親にケアマネジャーさんがいるなら、まず家族から「息子や娘のことも相談したい」と話してみる。そこから地域の相談機関や、その人に合った専門家につながる入口になるかもしれない。

「助けて」と言うことも、「出来た」の一つである。

そして支える側も、相手の人生を全部背負う必要はない。私自身、人を支えようとするなら、自分まで相手の苦しみに引きずり込まれない強さが必要だと学んだ。

手を差し出すことはできる。一緒に最初の一歩を考えることもできる。でも、その人の人生を代わりに歩くことはできない。

変わらなくていい。出来ることを一つする。

その小さな「出来た」を繰り返していく。振り返った時、最初にいた場所とは少し違うところに立っているかもしれない。

だからこそ、本人や家族だけに抱え込ませず、医療、介護、福祉、地域、就労支援などにつながる窓口は必要だと思う。これは、私が考えている「絆ネット」にもつながっている。

しかし同時に、支援する側にも覚えておかなければならないことがある。

窓口を開くことはできる。

一緒に歩き始めることもできる。

でも、その人自身の一歩まで、他人が代わりに歩くことはできない。

では、自分はどうする

一月ほど前、私は妻との間で感情を爆発させてしまった。嫌な思いをさせた。

そのとき私は、この状態を引きずってはいけないと思った。明日にしない。そのままにしない。できるだけ早く話し、謝り、妻にも私の考えていることを伝えた。

幸い、妻も理解してくれた。そしてまた、いつもの生活に戻った。

今朝も妻は元気にスーパーの品出しの仕事へ出掛けていった。私は「行ってらっしゃい」「ご安全に」と送り出した。

大げさなことではない。でも人生というものは、案外こういう一瞬、一瞬の積み重ねなのかもしれない。

私は今、以前のようには身体を動かせない。家には車椅子がある。そして、要介護4の判定を受け、身体障害者手帳2級でもある私自身がいる。これが現実だ。

異世界には行けない。若い身体にも戻れない。人生を最初からやり直すこともできない。

だから私は、

今ある人生を生きる。

他人が変わるかどうかは、最後にはその人自身の問題である。

では、自分はどうする。どう生きる。

私の答えは単純だ。

良いも悪いも、今この瞬間を全身で感じて生きる。

『無職転生』について考えていたはずなのに、ずいぶん遠くまで来てしまった。でも、もしかすると、これが私なりの「読書感想文」なのかもしれない。

ちなみに途中でチャッピーさんと、「意識を変え、自ら行動することこそがあなたが生きる道。窓口は開いている」みたいな話になった。

そこで私は思わず言った。

「何か……宗教の勧誘みたいですね。」

朝から二人で何を話しているんだか。

でも、それでいい。

腹を立てることも、笑うことも、考えることも、全部、今、生きているということなのだから。

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